井上 勝 志気像   JR萩駅   180cm


父は萩藩士。嘉永元年(1848)野村家の養子となり、
野村弥吉と称す。文久3年(1863)
伊藤博文・井上馨・山尾庸三・遠藤謹助ら(長州ファイブ)とともに密航し、ロンドン大学で鉱山・土木工学を学ぶ。
明治元年(1868)帰国し、以後井上勝と称す。4年工部省
鉱山寮鉱山頭兼鉄道寮鉄道頭、5年(1872)鉄道頭専任となり新橋-横浜間の日本で始めての鉄道を引いた。その後東海道線をはじめ鉄道の建設に尽力。15年工部大輔、18年内閣鉄道局長官兼技監などを歴任。23年貴族院議員、内務省鉄道庁長官。24年鉄道国有論を主張して、「鉄道政略ニ関スル議」を提出し、鉄道敷設法制定の契機となった。29年汽車製造合資会社を設立し、社長に就任。鉄道院顧問となり渡欧したが、病にかかり、ロンドンで客死。